『解體新書』全五冊の第一冊。 吉雄永章(耕牛、 幸左衛門)の「刻解體新書序」七丁、 著者「丹都止夫地名王学校 大医学薬医 窮理学 与般亜単闕児武思」の「自序」杉田翼(玄白)訳二丁、 玄白の「凡例」六丁、 小田野直武による「解体図」二十一丁からなり、 いずれにも朱または墨書の書き入れがある。
表紙の題鐐に「解體新書 小石元俊校正書入」、 見返しの貼紙に「小石元俊若州ノ人家世々小浜侯二仕フ父卜共二大坂二出テ始天文二志セシカ後医二志シ柳川侯医官淡輪元潜ノ門二学フ元潜元俊ノ四方二志アルヲ知リ資ヲ与へ遠遊セシム六年ニシテ還ル偶杉田玄白ノ解體新書ヲ読蘭医ノ精密ナルヲ知リ芝野栗山ヲ介シ書ヲ玄白二寄セ往復討論ス後江戸二出テ大槻玄沢二寓シ玄白并前野良沢卜交遊シ学ヲ講スル余歳京二帰リ業ヲ開ク名籍甚諸侯数次招鶚スレトモ応セス」、 次葉遊紙表に「贈正四位杉田翼先生訳書」の墨書がある。 遊紙表にはまた神原甚造による「凡例三張表『亨叔按』又『道按』とあり 図八張表『道按』とあり」の貼紙がある。 「道」は小石元俊(1743–1809)の名、 「亨叔」は元俊の生涯の友、 小田亨叔(1747–1801)である。
著者クルムスの自序冒頭の地名「丹都止夫」(ダンチヒ)に関して、 「橋本氏按ニタントシフ者恐クハダントシクナラン地理書ニタントシフ無キガ故也ダントシクハポウレンノ内領国プロイセンノ内ノ都会ノ地也ゼルマニアノ東都ノ地ナリ」の墨書がある。 さらに「橋本氏トアルハ橋本鄭(宗吉)ナルヘシ 寛政十二 新訳地球全図ノ著有 元俊漢方ヲ棄テ蘭方ヲ唱フルモ蘭書ヲ読コト能ハス宗吉ノ聡敏ヲ聞キ資ヲ出シテ之ヲ江戸二遣シ大槻盤水二就キ教ヲ受ケシム宗吉寝食ヲ忘レテ学二黽メ歳余ニシテ蘭書ヲ解スルニ至リ大坂二帰リ蘭書和解二勉厶京阪蘭学ノ祖ナリ」の貼紙がある。
元俊および亨叔の書き入れ時期を推定させる有力な手がかりは、 著者の自序末尾の西暦「和蘭開国来一千七百三十一年」についての朱の書き入れである。 「和蘭開国ハ日本ノ人皇十一代垂仁天皇三十一年唐士ノ漢平帝元始二年二当ル也天明七年マデ千七百八十七年也彼国年号ナシ開国ヨリ何年トス冬至ヨリ十二日二当ル日ヲ以テ正月トスル也」、 欄外には「寛政戊午歳千七百九十八年也」とある。 元俊は天明六年に江戸へ出て玄沢の家に寓し、 翌年玄白を訪問、 天明八年帰京すると自塾で熱心に『解體新書』を講義した。 天明七年の書き入れは、 江戸に船ける玄沢、 玄白との交流を物語るものであろう。
寛政戊午すなわち寛政十年(1798)は元俊にとって二重に重要な年であった。 二月十三日に行われた解屍で都督を勤めたのである。 この解屍は「施薬院解男体臓図」(吉村蘭洲筆、 京都大学附属図書館所蔵)で知られ、 図毎に元俊の注記と橋本宗吉の蘭名書き入れがある。 この神原文庫本『解體新書』は「解体図」に「此神経図誤リ也外ヨリ内エ入ルハツナリ」などと随所に訂正があること、 橋本宗吉の按文があることなどから、 施薬院の解屍の際参考にされたものと思われる。 また、 この年は元俊の師永富獨嘯庵の三十三回忌に当たっており、 獨嘯菴の末弟小田亨叔と相談の上、 三月五日墓前で式典を行った(山本四郎『小石元俊』)。 亨叔の按文書き入れもとの年のことであろう。