地図が納められていた箱の表に、 タイトルの長崎市中地割繪圖、 裏に作成者と作成年月日が書かれている。 内藤安房守様御在勤 堀喜八郎と若松森輔である。 嘉永四(1851)年亥九月に作成された地図であることがわかる。
長崎中心部をこれだけ詳細に描いた地図は他に類例を見ない。
この時代に作られた他の長崎の地図がヨーロッパ人の住む出島と中国人の住む唐人屋敷については、 詳細に地図に書き込む事例が多いのに、 本図では、輪郭は示すが、 詳細は示されていない。 それに対して、 日本人の住宅に関しては間口と奥行きが書き込まれている。 色分けは町内ごとになされているようである。 主に日本人の住居を示すために作られた地図であることが考えられる。
現代人にとって地図を作製するときにまず書き込むランドマークの寺院や神社が周囲に名前だけ示されており、 この地図の作製目的が長崎市内の住宅に対しての調査であったと推測される。